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メアリー・ピックフォード

メアリー・ピックフォード
メアリー・ピックフォード, by Wikipedia / CC BY SA 3.0

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メアリー・ピックフォード(Mary Pickford、1892年4月8日 - 1979年5月29日)は、カナダ・トロント出身の女優、プロデューサー。
サイレント映画時代の大スターであり、「アメリカの恋人」と呼ばれて親しまれた。
妹のロッティ・ピックフォードは女優、弟のジャック・ピックフォードは映画監督・プロデューサー。
なお「メアリー」ではなく「メリー」の表記もよく使われる。
ピックフォードの本名は、グラディス・ルイーズ・スミス(Gladys Louise Smith)といった。
アイルランド系カトリック教徒の両親のもとに生まれる。
カナダの巡業劇団に参加し7歳より子役として活躍していたが、ニューヨークに移りブロードウェイの舞台に立つようになった。
1909年、15歳の時に有名なD・W・グリフィス監督に認められて映画デビュー。
小柄で若々しいピックフォードは、無邪気な少女役で長く人気を博した。
ピックフォードは年間100万ドル稼ぐ最初の女優であった(同時期のスターであった浪費家のグロリア・スワンソンと違い、貯金もする倹約家だった)。
1916年、自分自身のプロダクション「メアリー・ピックフォード・カンパニー」を設立。
自分で自分の映画を作り出す最初の女優となった。
1919年、監督のD・W・グリフィス、ダグラス・フェアバンクス、チャールズ・チャップリンらとユナイテッド・アーティスツ社を共同設立。
同社の映画『青春の夢』や『小公子』などに主演。
1922年、ドイツの映画監督エルンスト・ルビッチをハリウッドに招き、制作した映画『ロジタ』に出演。
1929年の『コケット』でアカデミー主演女優賞を受賞した。
1933年に俳優業から引退。
引退後はプロデューサーとして映画製作に参加したり、化粧品会社などを設立し実業家としても活躍した。
83歳の1975年にアカデミー名誉賞を授与され、その4年後に亡くなった。
プライベートでは1920年にダグラス・フェアバンクスと結婚し、このカップルは"ピックフェア"と呼ばれ親しまれたが1936年に離婚した。
ピックフォードの名言「失敗とは転ぶことではなく、転んだまま起き上がらないことです」。
1921年ごろ撮影 フェアバンクスとハネムーンへ 『小公子』(1921) ^ 猪俣勝人・田山力哉『世界映画俳優全史 女優編』(教養文庫、1977年)、メリー ピックフォード - 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊) - コトバンク、『サイレント映画の黄金時代』(国書刊行会、2019年)など ^ Mary Pickford at Filmbug ^ 谷崎潤一郎『痴人の愛』:新字新仮名 - 青空文庫



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